なぜか「蹴りたい背中」(綿矢りさ)が手元に流れてきたので読んだ。
実際のところ芥川賞の過去の受賞作といえば
安部公房 壁」これは面白かった。
三浦哲郎 忍ぶ川」あまりよく覚えていない。
くらいしか読んでいないので「芥川賞」がいったいどんな小説を実際のところ
(新進作家の短編に与える賞とか言う定義ではなく)対象にしているのかいま
ひとつよくわかっていない。

さて「蹴りたい背中」。この主人公がうんざりするくらいに繰り返す、
「孤独感」だの「疎外感」だのは、気の利いた中高生なら誰もが通り抜ける
感覚なわけですが、その結果としてこの作者は「たくさんの人が見たことの
ある景色」に対してあらたな説明書きや意見を述べることを期待されてしま
うと思うんです。これはある意味危険ですよね。観光名所のガイドブックを
書くようなものです。何を書いても誰かが先に書いているような、実際に見
て来た人には「これはそうじゃない」と言われてみたりするような。
それではこの小説で見慣れた景色に何か新しい光が当てられているのでしょ
うか。文体は新鮮、なのでしょう(最近の日本の小説をよんだことがないも
のでよくわからない)。本題の「孤独感」や「疎外感」についての作者の態
度はどうでしょうか。主人公が「にな川」と「絹代」に代表される「オタク
的・内省的・非社交的世界(ディテールあり)」と「普通の世界(ディテー
ルなし)」の狭間で、どちらかといえば「にな川」側に傾きつつも結局のと
ころ、それすら「蹴りた」くなってしまうのは、どちら側にいる自分も嫌で
あると、どちら側も見下すべき対象であると意識しているよに見えます。内
面では「にな川」側に引き寄せられているにも関わらず。このような、自分
がこの世界を一番理解している的な世界観というのは、最初に書いたように、
誰もが若かりしころに思っていてもなかなか口には出せない、恥ずかしくて、
幾らも経たないうちにガラガラと崩れてしまうような世界だと思うんです、
それが自然に崩れないほど強固なものであれば、そしてその強固さを詩的に
表現できれば、たとえばこの作家も好きだという太宰治の「人間失格」やカ
ミュの「異邦人」的な破滅の道すじを描くことができるでしょう。しかし、
この主人公の世界観はそれほど強固なものではないようにみえます。どうも
私にはいわゆる若気の至り的な「思春期の悩み」でとどまってしまっている
ように思えます。

この小説の世界は学校の教室の枠の中でしかありません。作家本人が「自分
の世界は狭い」ということを認めているようですが、あまりにも狭い世界で
す。まるでティーンズ小説かと見紛うほど狭い。作家自身の年齢からすれば
それがこれまでの人生の世界であったのはまあ間違いないのですが。しかし
世界はもっと広大で「絹代」や「唾本」にも彼らなりの心の襞があるわけで
す。そこを自分の世界からばっさり切り落とすのではなくもっとうまく扱え
れば、もっと物語にリアリティ、焦燥感といったものが現れて幅広い共感を
得ることができると思います。

一言で言うと私はこう思ったわけです。

気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。「トカ㌧㌧」太宰治 より

この作家が若い間に才能を浪費されて干からびてしまわないと良いのですが。