今更だけどジダンの人種的バックグラウンドについての記事

Zidane said : I come from and I am still proud to be who I am : first, a Kabyle from La Castellane

http://www.kabyles.com/article.php3?id_article=2271
(注)この記事は2004年に書かれたものです。

マルセイユの北の郊外に位置する公営住宅地、La Castellaneの高層アパート群、そして何もない埃っぽい通りは、公にquartier difficile - 問題地域として知られている。ここの住民のほとんどは一世もしくは二世の移民たちである。移民の第一波はアルジェリア、そしてモロッコから1950年、60年代にやってきた。しかし現在のLa Castellaneにはサハラ以南のアフリカからカリブ海諸国、すべてのフランス語圏からの移民が住んでいる。

La Castellaneの人々はマルセイユというフランスの中でももっとも困難で貧しい都市と自分たちを同一視することには問題がない。La Castellaneの見晴らしの良い場所からはマルセイユの古い港とマルセイユ湾を一望することができ、移民の第二世代は誇りを持ってマルセイユ訛りのアクセントやスラングを身につけている。しかし、ここに住むほとんどすべての人々は自分たちをフランス人であると素直に思ってはいない。

La Castellaneはレアル・マドリードのプレイメーカーであり、32歳でプロとしてのピークにある、今の時代において最も才能にあふれたフットボール選手、ジネディーヌ・ジダンの故郷である。

フットボールの世界、特に彼と深く関わった人々の間での意見はおおむね一致している。ジダンが2つのゴールを決めてワールドカップを優勝した1998年のフランス代表の監督であったエメ・ジャケジダンがすばらしい逸材であることにすぐ気づいたという。「ジダンは内なるヴィジョンを持っていた」彼は言う。「ジダンのコントロールは正確で慎重だった。彼は自在にボールを操ることができた。でも彼を突き動かしていたのは彼の情熱だった。彼は100%フットボールだった。」

ユーロ2004の優勝を目指す現在のフランス代表の監督、ジャック・サンティニは必要なときにしか彼の選手たちをほめることはないが、ほとんど同じようなことを言っている。「彼はフィールドの中であっても外であっても責任をもつことを恐れようとはしない」「それが彼が試合に良い影響を与え、すばらしいキャプテンである理由だ。彼は何も恐れていない」

同僚の選手たちも同じように彼の一貫性と強さをたたえている。頑固なまでに効率と組織を重んじるルイス・フィーゴジダンのコントロールを「すばらしい」と表現し、ディヴィット・ベッカムもなんのてらいもなく彼のチームメイトを「世界でもっとも偉大な選手」と呼んでいた。最近のFIFA最優秀選手の選考でジダンに敗れた、ティエリ・アンリジダンの完全さを賞賛し、フランス代表でのジダンの存在を、「チームの誰もがいつだって頼りにできる男、いつだって状況をコントロールしている」と言っている。

もしジダンに対する批判があるとすれば、失敗への対応がうまくできず、試合に参加したりしなかったりしてしまうことだろう。しかし彼の技術的なすばらしさはどんな不調の時期でも見くびることはできない。最も良い例は2002年のチャンピオンズリーグ決勝だ。出場停止から戻り、ユヴェントス時代の2年連続の決勝での敗退の記憶を追いやるように前半終了間際にまるで奇跡のような左足でのボレーシュートバイエル・レバークーゼンのゴールに決めた。このゴールによりレアル・マドリードは創立100年の年に9度目の同大会での優勝を祝うことができた。

この勝利の後の数日間、今でもエミリオ・ブトラゲーニョ*1アルフレッド・ディ・ステファノ*2を礼賛する筋金入りのマドリスタたちもジダンの前にひれ伏したのであった。

この10年間ジネディーヌ・ジダンはフットボールが与えられるすべての最高の名誉を獲得してきた。しかしLa Castellaneの住民たちにとって何よりも大切なことは、彼が一度も自分のルーツを忘れたことがなかったことだ。彼の両親は今でも近郊の少しだけ高級なLes Pennes-Mirabeauの郊外の大きな家に住んでおり、彼の兄弟の一人、Faidはジダンが終身会長を勤める地元のチーム、ヌーヴェルヴァーグの監督をしている。ここの子供たちはジダンがフランス全体の象徴になっていることについては無関心だが彼に対して感謝している。「他所の人にLa Castellane出身だって言うとみんな怖がるんだ」ヌーヴェルヴァーグのゴールキーパーKarimは言う。「でもジダンのチームでプレイしてることを言えばみんな尊敬のまなざしでみてくれるんだ」

そのほかのフランスにとってジダン、より親しみをこめてジズー、は、フットボールの技術と同時に彼の上品さを賞賛している。彼の優先順位は、フットボール、家族、そして友達。彼の家族はアルジェリアからの移民であり、自分のことを「宗教活動をしていないイスラム教徒」と表現している。

ジダンの存在はフランスという多民族国家の中で宗教や人種を超えるものになっている。最近の「歴史的にもっとも人気のあるフランス人」という投票でジダンは歌手ののJohnny Hallyday*3やMichel Sardou*4を抑えてトップになった。特筆すべきことはこの投票が(イギリスのDaily Mailのように右よりの)Journal du Dimancheによって行われたことである。「国全体に認められることは信じられないくらいすばらしいことです」ジダンはこの投票についていった。「これはすばらしいことです。これまでは問題のある地域の出身だったり、移民の出身だったりしたら、口をはさむことのできないようなことがありました。でもこれはフランスがいかに変わったか、変わりつつあるかをあらわしています。政治家や私とともに育った子供たち、普通のフランス人、すべての人たちへの、どんな風に変わってゆくことができるかというメッセージです」

多くの評論家たちにとって、ジダンのこの保守本流メディアにおける予期しない勝利は新たなフランスの政治的成熟を意味するものとなった。フランスの知識人たちは通常、スポーツを軽蔑するが、小説家のPhilippe Sollersがジダンをフランスの首相にするといい、といったのは半分冗談、半分本気であったし、さらに社会学者のPascal Bonifaceはジダンの人気を「新しい悟り」の始まりと刺激的に表現した。

ジダンは同時に政治について関与しないことでも有名だ。「何もメッセージはありません」1998年のワールドカップの勝利の後、彼は繰り返しそういった。彼に近い人たちは彼が多くを語らないのはもともと内気で謙虚なせいだというが、ここには他の理由もある。「ジダンの周りには余りにも多くのサメがいるんだ」ジダンの兄弟のNordineは言う。「彼を政治に利用しようとしてる人たちが多すぎるんだ」

この結果、ジダンの社会に対するイメージは注意深く計算され、彼のフィールドでの動きのように技術を凝らしてしっかりと守られている。彼の人気は絶大だが、ほとんどのフランス人にとって彼は知ることができない存在なのだ。

マドリードの北の郊外に延びるPaseo de la Castellanaの通りから程近いレアル・マドリードの練習グランドほどLa Castellaneのすすけた風景からかけ離れた場所はないだろう。厳重に警備されているが、一旦サインを求める人々やアマチュアカメラマンの人垣を抜けるといくつものピッチの上では裕福で有名な選手たちが練習したり、小さなスタンドで話をしている。雰囲気は驚くほどリラックスしたものだ。前夜のサンチャゴ・ベルナベウでのセビリアに対する勝利が楽しげな雰囲気を作っていることは間違いない。

おかしなくらい大きな4輪駆動車で現れたディビット・ベッカムは歓声を引き起こし、少女たちはゲートに走りよっていった。数分後私がロッカールームを通り抜けているとレアル・マドリードの若い選手たちがスペイン語でベッカムのことをからかっていた。

「ディビット、愛してるわ」彼らは言った。

ベッカムはにっこりとして笑った。でも明らかに何を言われたかは理解していないようだった。

そのころピッチの反対側ではロベルト・カルロスがブラジルのテレビクルーのためにシザーキックの練習をしながらふざけて遊んでいた。私が選手の通路の近くにいるジダンに挨拶しようと歩いていくと、この左サイドバックの選手は(彼は明らかにレアル・マドリードのムードメーカーだ)われわれの間にボールをけりこみ、ジダンの背中に飛びついて耳元で何かを話しかけ、彼を大笑いさせていた。

このゼスチャーはインタビューをあまり深刻に考えないように、というメッセージだったのだろう。私がジダンについて一番最初に感じたのは、あれほどフィールド上では優雅に堂々としている選手が、実際に会ってみるとぎこちない印象であることだった。彼はデリケートそうに、まるで少女のように、足をそろえて、手をももの間にはさんで座った。私は、彼はおそらく純粋に恥ずかしがり屋なのだろうと思った。

しかし、私のインタビューより前に行われた公式記者会見ではこのような印象はなかった。ヨーロッパの記者からの厳しい質問 - 彼の契約、前夜のセビリアとの試合、レアル・マドリードの将来について - に対してジダンはフランス語とスペイン語で抑制された遠慮がちで皮肉も混じった受け答えをしていた。しかし、私が彼に「どこにいるときが一番落ち着くかを聞いたとき」彼は言葉を選んでこういった。「私は何よりもまず、マルセイユそしてLa Castellanceの出身です」そして、ためらいがちに「マドリードのことも愛しています。ここにいることは幸せです。ここに来て3年になりますが、もっと長くいられればと思います。でも私は自分の出身地を誇りに思っていますし、ともに育った人たちのことを忘れることはありません。どこに行っても、La Castellanceは私の戻りたい場所です。今でも私の家なのです。確かに問題のある地域ですし、フランスではquartier difficileと言われています。でもあそこには特別な文化があると思います。マルセイユは多分リバプールみたいな場所なんでしょう。とても活気があって、タフで。Bruno Cheyrou*5やAnthony Le Tallec*6を知っていますが、彼らはこのシーズン、リバプールで活躍するでしょう。フットボールに対する私の情熱はマルセイユそのものからもらったものです。残念ながら外国でプレーすることが多いのでなかなか帰ることはできません。でも私はいまでもオリンピック・マルセイユのサポーターなんですよ。ASカンヌの選手だったときですら、マルセイユの試合を見に行っていたほどなんです。」

彼はマルセイユ特有の母音を強調したアクセントで話し、北アフリカのベルベル人に良く見られる明るい肌の色をしている。ベルベル人はアラブ人とは異なり、近年ではジダンの家族の出身地であるアルジェリアのKabylie地方はアルジェリアの政府と対立している。虐殺のうわさ、それに対する仕返しの虐殺のうわさも流れたいる。しかし西側社会が分かるのは1992年から続く内戦で10万人以上の命が失われたと言うことだけだ。

ロビイストたちからのプレッシャーにもかかわらずジダンは公の場で戦争について語ることも自らのベルベル人の血筋について語ることもなかった。しかし彼は明らかに自分のアイデンティティが英語メディアで伝えられることをうれしく思っていた。「私の家族は私のことを大変誇りに思っています。わたしも家族のことを誇りに思っていますし、その家族の故郷のことも同様です。私の家族がKabylie*7の出身であることを誇りに思っています。私にとっては特別な場所ですし、そこにある私のルーツはとても大事なものです。昔、若かったころには父のふるさとの村に良く訪ねていったものです。でも今は、マルセイユとLa Castellaneと同じですね。そこに行きたいと思ってもいろいろな理由から実際には難しいのです」

ジダンの家庭の歴史はこのように伝えられている。ジダンの父Smaïlはアルジェリアの田舎の丘に位置するTaguemouneの村に住む家族を後にして、パリにやってきた。同じように移民としてやってきた仲間たちとともにタフなBarbesやSaint-Denis (偶然にも現在のスタット・フランスの場所であり、ジダンの最も偉大な勝利である1998年ワールドカップ決勝でブラジルを3-0で破ったその場所である)へと向かった。その辺りにはほとんど仕事もなく、金もなくなってきたため、家族はマルセイユへと移り住んだ。なにはともあれ、そこは文化的にも地理的にも祖国に近かったのだ。

1960年代半ばのマルセイユでSmaïlは倉庫番として働いた。真夜中のシフトに勤務することもたびたびだった。彼は思いやりのある父親であり、彼の息子が自分(Papa)の留守の時にしばしば怖い夢をみて、うなされていることを知って悩んだりもした。彼はジダンのことを「優しい子供」だけど、それでもアパートの全部の電球をボールで壊したりもする元気の良い面も同時に持っていた、と記憶している。

ジダンは父親について尊敬をこめてこう語った。「私はとても父に影響を受けました。私が父に教えられたのは、移民はほかの人たちよりも二倍一生懸命働かなければいけないということです。そして彼はその通り生きていました」

ジダンは自分の若い家族についても誇りを持って語った。彼はフランス系スペイン人のVéroniqueと1992年に結婚した。彼らはジダンがカンヌにいるときに知り合い、今では3人の息子たちの親だ。息子たちは皆イタリア風の名前を付けられている。「みんないいフットボールプレイヤーですよ」ジダンは言う。「彼らが本気になってくれたらうれしいですね。でもまずは一生懸命練習しなければいけません。それが私の学んできたことですから」

Smaïlは1998年のワールドカップ決勝をジダンの息子Lucaの世話に追われて観ていなかった。それでも彼は息子Yazidの決めたゴールをうれしく思った。「私たち皆にとってすばらしいことでした」優勝後の愛国的な喜びに包まれたフランスのことを思い出しながらジダンは言った。「私たち家族は何も持たずにこの国にやってきました。それが今はフランスのいろいろな人々から尊敬されているんです」このとき、ジダンを取り巻く熱狂はフランスで最高潮に達し、ポスターやグラフィッティ、ラップソングまでが「ジズー大統領」をたたえ、シャンゼリゼではフランス国旗とともにアルジェリアの国旗がたなびいていたのだった。

しかし、こんな幸せな時は長くは続かなかった。勝利の数日後、国民戦線*8の党首である、ジャン=マリー・ルペンはメディアに対し、フランス代表チームの人種構成について噛み付いていた。彼はジダンを指して「フランス系アルジェリア人の息子」への気のない褒め言葉を与えた。彼のコメントは注意深く準備されたものだった。「フランス系アルジェリア人」という言葉はフランスメディアの間で中立的な意味を持つことはなかった。つい1962年に長く血なまぐさい戦争を経て終わった植民地時代の記憶を呼び起こさざるを得ないのだ。この意味するところはつまり、「フランス系アルジェリア人」のジダンは植民地の下僕であるか、もしくは父の生まれた国を捨てた裏切り者であると言うことであった。

そしてルペンの部下の一人は、もしジダンがフランスに受け入れられるとすれば、それは彼の父親がharkiであったからだ、と宣言した。このアラビア語の単語はフランス側に着いて戦ったアルジェリア人たちのことを意味している。Harkiの一部は戦争後に虐殺され、一部はフランスへと逃げのびていった。Harkiは植民地戦争の忘れられた被害者たちだ。自分の国の人々からは裏切り者として蔑まれ、フランスからも植民地時代の恥ずべき思いでから嫌悪されている。この侮辱はとくにLa Castellaneのような郊外におけるジダンのイメージにダメージを、傷を与えることを計算されて行われたものだった。

この誹謗中傷の影響がすぐに表れたのは、フランスとアルジェリアによる親善試合においてだった。この試合はスタッドフランスにて2001年10月に行われたが、ジダンのキャリアの中でもっとも苦しいものの一つとなってしまった。この試合はお互いなくてはならないはずの二つの国の和解を象徴する歴史的な試合として行われるはずであった。両チームが顔を合わせるのはアルジェリアの独立以来初めてのことだった。

しかし現実は醜いものであった。試合前にジダンは殺害予告を受け取り、試合中にはブーイングを受け、侮辱され、「Zidane-Harki」と書かれた横断幕が掲げられ、ジダンは混乱した。結局この試合は後半途中でピッチに乱入したアラブ系フランス人がオサマ・ビン・ラディンを礼賛し、フランスを敵視する歌を歌い始めたために没収試合となってしまった。1998年のフランス代表によって始められた多民族フランスの冒険は終わりを告げ、極右勢力が力を強めていた。

ジダンのこの混乱に対する反応はついに彼の父親に関する沈黙を破った。「一度だけ言います。私の父はHarkiではありません」彼はこうメディアに話した。「父はアルジェリア人であり、そのことを誇りに思っています。わたしも父がアルジェリア人であることが誇りです。大事なことは、父は一度も自分の祖国を敵にして戦ったことなどないということです」

この宣言の後、ジダンは自分の出自のことについてよりオープンになり、ガードする姿勢を緩めた。ジェラール・ドパルデュー*9とともに国民戦線に対抗するキャンペーンをサポートし、若き移民のフランス、いわゆるジェネラシオン・ジダン(ジダンの世代)の顔となった。

話がアルジェリア、マルセイユ、音楽、そして家族に及ぶにつれてインタビューの雰囲気はリラックスしたものになっていった。握りしめられていた手は広げられ、ジダンは気持ちを込めて話していた。「私は困難な地域の出身であることを好運に思っています。そのことはフットボールだけじゃなくて人生についていろいろと教えてくれたのです。たくさんのいろいろな人種の子供たちが、多くの貧しい家族がいました。人々は一日をやり過ごすのに精一杯でした。音楽が大事で、フットボールは気晴らしでした」

今となっては早熟の才能を持ったティーンエイジャーのジダンを想像するのは容易いことだ。兄弟につけられたニックネームの「Yaz 」と呼ばれ、La Castellaneの中心にあるPlace de la Tartaneの砂利で彼の細かなテクニックを練習しているジダンを。この頃の彼の写真は不安げで、喜びたくて、自分のことがよくわかっていて、しかし意志の強い子供を映し出している。幼なじみのDoudouは言う。「Yazidは控えめで謙虚だったよ。そのことで彼をからかったりしたものさ。でもみんなこの中で誰かが成功するとしたら彼しかいないってことはわかってたんだ。とても負けず嫌いだったからね」

プレイヤーとしてのジダンを語るときによく言われるのが、彼は内なる怒りに突き動かされているということだ。彼のフットボールは優雅であり、そこに技術とヴィジョンが組み合わされている。しかし、彼は不可解なほど突然に驚くほどの暴力を爆発させることがある。最も有名なものは2000年のチャンピオンズリーグの試合で起こったハンブルグのJochen Kientzに対する頭突きだ。これによりユヴェントスに所属していた彼は5試合の出場停止処分を受けた。もう一つは1998年のワールドカップにおけるサウジアラビアのあわれなFaoud Aminを踏みつけた事件だ。(このことは不思議なことにベルベル人のコミュニティではジダンのアラブ過激派に対する反撃として賞賛された)

AS カンヌのジダンの最初の監督は彼が自然で感情的あり、彼の人種や家族について野次を飛ばした観客に反撃したがっていることに気づいた。その監督、Jean Varraudの第一の課題は彼の怒りをどう受け流させて試合に集中させるかということにあった。Varraudによるとジダンはカンヌでの最初の一週間を、彼がゲットー出身であることをからかった試合相手を殴ったことに対する罰として、ずっと掃除をして過ごしたということである。

1996年にユヴェントスに入団した頃、彼はピッチの内でも外でも自分をコントロールし、制御することのできる人物として知られるようになっていた。このような性格は、同じくマルセイユ出身でフランスのフットボール会でもっとも奸知にたけたRolland Courbisの指揮するボルドーでの経験によって形成された。Courbisはすぐにジダンは飼いならされていない自然のままの才能であることに気づいた。彼はジダンボルドーでの二年間を、彼が指針をもっとも必要とした時期だったと表現する。ボルドージダンは「ジズー」というニックネームをもらい、感情を抑制することを学んだ。「彼が類まれな選手であることは誰の目にも明らかでした」Courbisは言う。「でも、この時は彼のキャリアの中でも、すべて彼の思うようにできた時期ではなかったのです」

また、ユヴェントス時代の初期にも大きな試合になると彼の抑えきれない感情が湧き上がることがあり、彼のチームをフィールドの中心からリードする能力に疑問が投げかけられたことがあった。ただ、年がたつにつれセリエAでの彼に対するマークは厳しくなったこともあり、このユヴェントスにきた最初のころがもっとも中盤の選手として活躍できたことも事実である。しかし、会長のGianni Agnelliも含め、ユヴェントスのファンたちは彼のフットボールには驚嘆していたが、彼のトリノでのナイトクラブ、美女たち、高級車などのさまざまな贅沢な楽しみについて消極的なことに困惑していた。贅沢な生活を楽しみ、ユーヴェファンにも愛されたミシェル・プラティニとは違い、ジダンは妻と子供たち、親類たちと過ごしがちで、近寄りがたく、謎に包まれた存在であった。

マドリード行きは彼をリラックスさせ、有名人であることにも馴れることができたようだ。「このチームが世界で最も優れたチームかどうかは分かりませんが、私自身が世界で最も優れた選手の何人かとともにプレーできることは本当に幸運だと思っています。夢のようです」ジダンマドリードについてこう話した。

イングランドとの6月13日の試合については気後れしているようにも見えるが、2002年のワールドカップでの失敗を受け、彼はユーロ2004をとても楽しみにしている。彼はベッカムのことを賞賛(「彼は本当にいい人ですよ。ここでの生活や試合にも良く慣れているし」)したが、そのほかのイングランドについては余り深くは知らないようだ。「私はイングランドでプレーする機械は一度もありませんでしたから余り良く知らないんです。イングランド代表はいつだって尊敬すべき存在です。いつだって彼らは最後まであきらめませんし・・・」彼の声は小さくなり、この発言は肩をすくめるジェスチャーで終わった。

スペイン人はヨーロッパでももっとも反アラブの気質の強い国民ではあるが、マドリードにおいてはジダンの人種、文化的なバックグラウンドはファンにとってなんの関係もなかった。ジダンは「ここは地中海の町ですからね、それが本当にわたしの文化なんです」とこの町で落ち着くことができるのを認めた。

しかし、それでも彼の態度やプレーには明らかなテンションが見受けられる。ジダンにとっての困難は彼自身も認めているように、どこに行って何を成し遂げようとも、彼にとって悪意に満ちたフランスの人種差別的な政治の十字砲火からは逃れることができないことだ。例えば、彼はずっとBeur(北アフリカからの移民を意味するスラング)文化のレゲエやラップ、rai(北アフリカのアラビア語ポップス)と関連づけられるようなことを、どんな些細なことでも断ってきた。このような音楽はごみごみしたフランス郊外の本当のサウンドトラックなのだ。しかし、彼はマルセイユのバンドが出そうとした自身をたたえる曲のCDもマネージャーを使い発売禁止にさせたほどだった。

彼は1998年のワールドカップ後に一冊の本、Mes copains d'abord(友達が一番)を出版した。この本はボルドー・フランス代表でのチームメイトであった、クリストフ・デュガリーとともに書かれた。この本の中でジダンはこれまでにない調子で、ワールドカップでの勝利が彼と彼の仲間にどのような意味を持っていたかを語っている。「それはアルジェリアの国旗を誇りに思うアルジェリアの人たちのためのものでした。家族のために大きな犠牲を払いながらも自分たちの文化を捨てることのなかった人たちのためのものでした」

この文章がひっそりと第二版からは削除されていたことにほとんどの人は気づくことはなかった。この削除を認めることは、ジダンは明らかに自分に対する裏切りであった。

ジダンのたびたびの暴力はこの自分の中での対立が原因となっているのかもしれない。ずっと文化と文化の間に宙ぶらりんになっていたアルジェリア系フランス人。まさに、公の場では穏やかな微笑を浮かべている彼のその奥にはLa Castellaneの一筋縄ではいかない路地で生き抜かなければならなかった男がいるのだ。「誰もジダンが天使なのか悪魔なのか分からない」ジダンのファンだと認めるロックシンガーのJean-Louis Muratは言う。「彼は聖アビラのテレサのように微笑むかと思えば、連続殺人鬼のようなゆがんだ表情を見せることもある」

これは昨夜のベルナベウでの試合でも明らかだった。大部分の時間において、ジダンは任せられた中盤をいつものように才能に満ちた様子で見回り、セビリアの中盤を獲物を捕らえるような本能をかすかに感じさせるように追いかけていた。ただ、一度か二度、彼の鼻腔がひろがり、彼の足が本来あるべきよりも強く蹴り上げること、またセビリアの選手を反則すれすれの手荒いタックルでなぎ倒すこともあった。「これまでの人生は幸運だったかもしれない。でもまだ試合の中でチャレンジしていくことが必要なんだ」試合の後に彼はこう語った。

これらは彼の突然の暴力を説明するような言葉ではない。でもこれらのことはジダンがさまざまな多くのことを抱えていることを示している。「説明するのは難しいのですが、毎日、どの試合においても力の限りプレーしなければならないという必要を感じているのです」「そしてこの戦いをやめないという欲望は私の生まれ育った場所で身につけたもう一つのことなんです。そして私にとって一番大事なことは、自分が何であるかをいまでも分かっている、ということなのです。毎日のように自分がどこから来て自分が何であるかを誇りに感じているんです。私はなによりも先に、La CastellanceのKabyle*10なんです。それからマルセイユ出身のアルジェリア人であり、そしてその次に、フランス人なのです」

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「子供の頃は周りが北アフリカ人やその他の外国人ばかりでしたので人種差別のようなものを感じたことはありませんでした。その後も(フットボールの世界では)差別をするような人はいませんでした。それでも時々人種差別主義者に出会うことはあります。人々にサインを求められるようなとき、誰が人種差別主義者かはわかるんです。それでもサインはします。(サインを求めにきた)親のことは気にしないようにして、私のサインをもらって喜んでくれる子供たちのことだけを考えるようにするんです・・・」

http://www.unison.ie/sportsdesk/stories.php3?ca=12&si=1650185

*1:1983年から1995年までレアル・マドリードに在籍したスペイン人フォワード。1985/86シーズンからリーガでの5連覇を達成し、レアル・マドリードの黄金期を支えた。

*2:1953年から1964年までレアル・マドリードに在籍したアルゼンチン人フォワード。在籍した11シーズンで8度のリーグ優勝、UEFAチャンピオンズカップ5連覇を成し遂げた。

*3:フランスのエルヴィス・プレスリーとも呼ばれる、著名なロックシンガー。フランスでのレコード売り上げは一億枚を超える。

*4:フランスの人気歌手。政治・宗教など社会問題を扱った歌も多い。

*5:フランスリーグのリールOSCでの活躍後リバプールに移籍(このインタヴュー当時)。「若きジダン」とも呼ばれることがあった。リバプールではそれほど活躍できず、いくつかのクラブを経て、現在はレンヌ所属。

*6:フランスのル・アーヴルでの活躍後リバプールに移籍(このインタヴュー当時)現在はイングランドのサンダーランドにレンタル中。

*7:アルジェリア北部の地方の名前。ベルベル人が多く住む。Kabylie出身者のことをKabyleと呼ぶ。

*8:フランスの極右政党

*9:フランスの俳優

*10:アルジェリア北部の地方の名前。ベルベル人が多く住む。Kabylie出身者のことをKabyleと呼ぶ。