宗教

もう10年以上前になるけど、大学に入学する直前の3月(今頃か)に、入学手続きということで大学の事務所に行った。ひどく寒い日で霙のような雨が降っていた。事務所に行くと封筒に入った書類の束を渡されて、手続き自体はほんの少しの時間で終わったように覚えている。(新幹線で2時間近くかけていったのに!)その後事務所を出て駅に向かって歩いていると、不幸そうな顔の男が作り笑いを浮かべて寄ってきた。大学に入ったらサークルに入って楽しいことをしよう!見たいな事を言ってサークルについて説明するからついてこいと言っていた。田舎から出てきた少年だった私は、まあそんなものかなあと思いながらついていってみた。まあそれほど汚いわけではない雑居ビルの2階に案内されると別のこれまた小汚い歯並びの悪い男がやってきた。どこ出身だとか他愛のない世間話から、話は急に人生の意味だとかいうような話になって、その男は「あるすばらしい人がいてその人の説く人生の意味についての説明はすばらしい。すばらしすぎて誰も論破することができないほどだから、絶対間違っていないのだから信じなきゃ絶対損!」みたいな事を言い出した。年端の行かない若者だった私もこれはよくない宗教だなあと思い始めたので丁重にお断りしてその場を後にした。それなりの人数がいたし男女の比率も半々くらいだったかな?大勢の新入生が説明されていたので何人かは入会したのかもしれない。その団体は「なかんずく」と名乗っていたが、実際のバックに何があったのかはわからない。説明中に、「そんなすばらしいことを言ってるのは誰ですか」と聞いても、入会しなければ教えられないといわれたし。その後大学の中でいくつか普通のサークルと思われていたのが実はオウムの団体だった、とかいうことがあって、「ああそういえばあれはオウムだったのかもしれないなあ」とも思ったりした。実際はそうじゃなかったかもしれない。ここまではただの昔話。
「ある人の話がすばらしいから信じるしかない」みたいな話を聞いたときに思ったこと、そして今でも思っているのは、宗教を人生の指針とするのは自分が楽をして怠けるための手段でしかないということだ。もし他人にそんな人生の真理を見つけることができるんだったら自分だって見つけることができるはずだし、仮に誰かの見つけた真理が本当の真理だったとして(まず最初にそんなものあるわけがないという立場があるんだけど)、なんで楽してそれを手に入れようとするの?ということだ。だから私は宗教が大きく生活の指針となっているような人を見ると「楽してんなこの人」みたいに思うのでした。